僕は瞑想についての私見から天才的論理的思考の放棄に迫れるか

最近ある天才と称されたエンジニアさんの話がバズりました。その方が10年以上前に論理的思考を放棄すればパフォーマンスが上がる、という趣旨の話を書いているので話題になっています。

設計でもコーディングでもおよそエンジニアリングから論理的思考を放棄するなんてとんでもない、と最初に思うでしょう。僕もそう思いました。

しかし『論理的思考の放棄の具体的方法』を良く読んでみるとどうやら僕が以前から瞑想に対して抱いていた私見と良く似たものである気がしたので考えをまとめてみることにしました。

概要

  • 天才エンジニア曰く、論理的思考の放棄をすればパフォーマンスが上がる(というより論理的思考をしているとパフォーマンスが出ない)
  • 私見で言えば、瞑想は自動意識を自覚し手放すこと
  • この2つは似ているような気がする

また、始めにことわっておきますと、氏の意見を否定するものではないです。また、瞑想は指導のもと実践経験はありますが専門家でもないので私見にすぎません。もしこれを読んでいる方と意見の食い違いがあれば一笑に付しておいてください。

氏が言う論理的思考の放棄とは

まず件のエントリを紹介しておきます。

(さらに文末のリンクの2も読むことをオススメします)

僕なりに要約すると

  • 人間は感覚的思考に最適化されていて論理的思考は感覚的思考上でのエミュレーションなのでパフォーマンスが悪い
  • プログラミングのような論理的な作業と考えられていることも、感覚的思考のほうが良い
  • 論理的思考を放棄してコンピュータの前に座ればあとは手が自動的にコードを書きあげる

そんなバカな、と思うでしょう。僕も思います。一方で仮にそれが可能だとして具体的にはどうするんだ、とも思うでしょう。それについてはこちらに書いてありました。

一見するとなにを言っているかよくわかりませんね。わかります? いやわかるにはわかるんですが、凡人の僕にはそのイメージと保ったまま同時にプログラミングなんて出来る気がしません。

しかし

脳の思考能力の多くを、上記の鉄球と磁石のイメージに費やしているので、無駄な考え (論理的な思考や、無関係なことを思い出すなど) を自動的に消滅させ、「何も考えないで」作業を完了させることができる。

というところに僕はひっかかりを覚え、これは瞑想の結果ととてもよく似ていると気づきました。つまり氏はいわゆるゾーン状態を常にキープしながら作業する方法を身につけ実践している、という話ではないのでしょうか。

瞑想についての私見

瞑想、最近ではマインドフルネスという言葉とその文脈の中でよくつかわれるようになりました。方法はいろいろあるようですが、静かに座り、呼吸に意識に集中することから始めるものが多いようです。

瞑想は本来、宗教的な意味合いを持たない

特に日本ではセンセーショナルな事件のせいか、一昔前まで瞑想イコール宗教的ヤベーやつみたいな見方が強かったように思います。最近ではマインドフルネスという言葉から注目を浴びそのイメージは払拭されつつあります。

瞑想の技法が宗教でも活用されていただけで、瞑想そのものは宗教的要素を含みません。時に変性意識状態になり、それが催眠状態に似たものであること、時に神秘体験に似た感覚を味わうことから素性のよくない宗教からの利用もされやすいのも事実と認識しています。

つまり、例え神秘的な体験や多幸感を味わってもそういうこともある、そういうもんと思って、気をつけておけばフラットな視点で瞑想に臨むことができるでしょう。

なぜ呼吸に集中するか

前述のとおり、瞑想は静かに座って自信の呼吸に集中することからまず始めます。
なぜ呼吸かというと、呼吸は人間の自律した運動でかつコントロール可能なものだからと考えます。

たとえば脈動は自律運動ですがコントロールできません。手足の動きはコントロールは容易ですが、自律的には動きません。呼吸は意識すればコントロールでき、意識しなくとも継続される運動です。

反応、反射

熱いものを触ったら考えるよりも早く自動的に手を引っ込める、これが運動的な反射ですね。痒いところがあれば考えるより先に手が動いてませんか。熱さが痒さの程度が弱かったり、変化が緩やかな場合は知覚してから考え、どうするか決断し動くこともできます。が、突発的な場合、知覚するより早く体が動きます。

つまりまず、我々は考えることなく動くことが可能な生物であり、考えることなく動くことをしてしまう生物だという認識が必要です。

自動思考

ときに「自我」と呼称されることもありますが、ここでは自動思考とします。人間は大抵の場合、五感から得た情報をもとに自動で何かを考えています。何かが目に入る、耳に聞こえる、匂いを感じる、などいろいろな情報をきっかけに何かを考えます。考えようとして考えるのではなく反射的に考えます。
考える、という言葉を使うとまだ能動的に感じるなら、考えが暴走するというか、ひとりでに考えを巡らすというか。

ボーッとする、という状態は何も考えていないのではなく、この自動思考に意識がとられ能動的に何も考えていないだけではないでしょうか?

仮説

つまり人間は能動的に考える、普段意識して行なっている「考える」という行為と、自動的に考えるある種バックグラウンドプロセスのような自動思考の2種類の「考える」方法があります。

例えば、考えたいとき可能な限り意識的な考える行動に脳内リソースを全振りできるとしたらどうでしょう?
例えば、瞑想がその手段であり、その結果、良く寝た後のような心地良さや頭がスッキリした感覚、そしてその後のパフォーマンス向上にもたらしていたら?

再び呼吸の話

ある瞑想の方法では、反応と反射をまず知覚することから始めます。呼吸をコントロールすることに意識を集中します。つまり使えるリソースを呼吸という必要な行動に全振りします。そうすると反射が鈍り体や思考が反応する前に気付くことが可能になります。

さらに反応に気づくことができれば、スルーすることもできますので、極力反射せずにスルーします。これはある瞑想方法では「観察する」と表現されています。

詳しい瞑想の技法についてはここでは触れませんが、それを継続していると次第にめまぐるしく行なわれていた自動思考スピードが落ちてきます。たくさんの感覚に反応しなくても良くなった結果、プロセスが占有しているメモリが開放されたかのように。

瞑想についての私見まとめ

つまり瞑想とは、感覚のフォーカスを含めた身体的コントロールを利用して、不要なバックグラウンドプロセスをkillしたり、メモリ開放をするための行動、と考えています。それには前述のとおり、なるべく楽な姿勢(反応を低減するために刺激の少ない状態)で、最小限の行動(自律的かつコントール可能な呼吸)を用いるのが最適でしょうね。

論理的思考の放棄にせまる

論理的思考の放棄の具体的方法で述べられているのは鉄球と磁石のイメージです。このイメージを持ったまま、目の前の作業にあたる。この状態、やはり瞑想に似ていませんか?

僕にはこの行動と瞑想からゾーン状態、変性意識状態に入りやすいということを結びつけて考えられずにはいれません。

ゾーン状態

一般的にゾーンと呼ばれるリラックスした状態と極度に集中した状態が同居するような状態です。僕自身、そうだったとしか言えないような経験が何度かあります。

スポーツをしているとき、時間がゆっくりと流れるような感覚とともに回りの音も消え、背景も消え、考えることなく素晴しい判断とともにパフォーマンス発揮できた。
対戦ゲームをしているとき、相手の行動がまるで手にとるかのようにわかり、複雑な先読みをせずに先手や対処できた。など。

この状態が、極度に集中した結果、自分が考えたことを知覚できなかったのか、自動思考を目の前のことへの対処に全振りした結果、考えることなく最高のパフォーマンスを引き出したのか、どちらかはわかりません。ですが、考えたことを知覚できなかったにせよ、自動思考に全振りしたにせよ、後に残る感覚は自動的に作業をし、素晴しいパフォーマンスを発揮できた結果が残ることには変わりません。氏の言説を頼りにすれば後者のもののほうが近いのかな、という気がします。

論理的思考の放棄

言葉のインパクトが先行しているフシがあり、前述した仮定に照らしあわせると「能動的思考の放棄」や「意識的思考」のほうがまだわかりやすいかったかもしれません。とはいえ、どう説明しても波紋を呼んだでしょう。

論理的思考の放棄は実際には思考を放棄していないかもしれません。思考しているにもかかわらず思考していることを知覚できなかったため、思考を放棄したと感じている可能性も否定できないでしょう。

スポーツや対戦ゲームのような肉体的反射を伴なう行動ならともかく、頭脳労働的な世界で意識的にゾーンに入り、操り、複雑な作業をやりとげる、ということを日常的に狙って行なえてるとしたらやはり天才や怪物、と呼ばれても不思議のない人物です。

また、本人にとっての日常でもそれ以外の人にとっては非日常です。当たりまえに感覚的に出来ていることを説明するのは難しいものです。例えば、喉に渇きを覚え、水を飲むとき、いちいち、喉が乾いた、さあ手を動かして机の上のコップを掴み、水の残量を目で確認し、最適なスピードで口の中に流しこむ、と考えないとうまくできませんか?
これは天才肌の人の説明やコーチが感覚的すぎて良く伝わらない、という話にもどこか似ています。

なにも天才に限らず、僕らが日本語の文法を詳しく解説できなくとも間違えることなく喋れているの似ています。「知っている」と「出来る」は別モノなのです。運動だとわかりやすいかもしれませんが、運動でなくてもやはり別モノなのです。

これらを加味すると、いくつか散見された意見のように、天才が故にあまりにも簡単すぎて考えも努力もなしにできてしまうわ、と嘲笑っているわけではないことは明らかでしょう。
また、こうして考察してみると当初感じた「そんなバカな、そんなのできるわけがない」という印象は薄れます。もしかしたら当の本人は本気でこの方法でゾーンやそれに近い状態で作業を行なえてるのだとしたら本当にできているのでは、と信憑性を帯びてきます。いやできているのでしょう、きっと。

かといって大半の人が氏と同じ方法を試してみたらすぐできるわけでもないのがツライところです。やはり俗人離れしてることには変わりないのでしょう。

まとめ

僕の見解をまとめてみます。

  • 瞑想の方法と論理的思考の放棄はとても良く似ている印象を受けた
  • つまりゾーンと呼ばれるハイパフォーマンス状態に能動的に入ることができているかもしれない
  • 論理的思考を放棄は、意識的思考、能動的思考、知覚的思考、などと言いかえることができるかもしれない
  • 残念ながら万人が真似をしてすぐに氏の域まで到達できることは難しそう
  • ただし、瞑想に近い状態で作業を行うというアプローチはやってみる価値はあるかもしれない

ということでした。

最初は、なにをいっているかわからん、バカげていると思いましたが、ここまで考察してみるとなかなか面白い話でした。できるかどうかはともかく、瞑想時のようなリラックスと集中が同居した状態で仕事ができたらそれに越したことはないので、楽しみながら僕は僕なりの方法でいろいろ試してみたいと思いました。

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